近世から近代における日本茶
はじめに
17世紀中ごろから18世紀、日本では江戸時代にあたる時期に、日本茶は3人の茶人により大きな転換期を迎えました。
釜炒り茶を伝えた隠元禅師
まず一人目は隠元禅師です。
隠元禅師は、中国から日本へ渡り、日本三禅宗の宗派の一つである黄檗宗(おうばくしゅう)を開いた高僧です。
17世紀中頃、日本の禅宗が衰退の一途を辿る中、禅宗復興の願いを込めて日本へ招かれました。
隠元禅師が日本にもたらしたものは、禅宗の教えだけではありません。料理、建築、印刷技術など、多岐にわたる中国文化を日本に紹介し、日本の文化に大きな影響を与えました。
その中の一つが「釜炒り茶」です。
隠元禅師は、中国から日本へ渡る際に、中国茶の種や製法を日本に持ち帰りました。
彼が伝えた製法は、釜で炒って作る釜炒り茶(唐茶)と呼ばれるものでした。
当時日本で飲まれていたお茶といえば碾茶(抹茶)のみで、上流階級の人しか飲めない高級な飲み物でした。
碾茶と異なりお湯を注ぐだけで簡単に淹れられる釜炒り茶の出現は庶民にもお茶の存在を広く知らしめました。
その後、隠元禅師の弟子である高遊外(こうゆうがい)こと売茶翁(ばいさおう)が、この釜炒り茶の製法を九州の嬉野に伝え、現在の嬉野茶の基礎を築いたと言われています。
煎茶の始祖 永谷宗円
次は永谷宗円です。
永谷宗円は、日本の茶業界に革命をもたらした人物として知られています。
1738年、京都宇治の永谷宗円は、現在の煎茶製法に近い新芽を蒸す手法「青製煎茶製法」を用い、味や香りが元来のものより格段に良い煎茶を作ることに成功し、全国に普及させました。
「青製煎茶製法」とは、茶葉の中でも新芽だけを摘み取り、その新芽を蒸し、その後焙炉(ほいろ)の上で手もみを行いつつ乾燥させる製法のこと。
それまでの茶は、新しい葉や古い葉、固くなった芽なども混ざった茶葉を、蒸すか茹でるかしてから乾燥させて仕上げる製法が主流であり、色も赤黒く風味もあまりよくなかったといわれています。
宗円が考案した、硬葉や老葉の混じらない良い生葉を蒸した後、手揉みを行い、さらに焙炉で乾燥させるという新しい製法によって、茶葉は鮮やかな緑色となり、香り高く、旨味のある煎茶が誕生しました。
宗円が15年もの時間をかけて開発したこの「青製煎茶製法」は、煎茶の品質を飛躍的に向上させ、江戸時代において庶民の間にお茶が広まるきっかけとなりました。
ちなみに、宗円が開発したこのお茶は江戸の茶商、「山本山」の山本嘉兵衛から大絶賛を受け、この商談以降永谷園と山本山の長い付き合いが続きます。
玉露を生み出した山本嘉兵衛
最後は玉露を生み出した山本嘉兵衛です。
1835年、六代目山本嘉兵衛は、お茶の木に覆いをかぶせて栽培する「覆い下栽培」により、玉露製法を完成させます。
玉露は、日本茶の中でも特に高級品として知られるお茶の一種です。他にはないとろりとした濃厚な甘みとコクが特徴で、覆いが香と呼ばれる独特の風味を持ちます。
玉露の茶葉は、収穫前の約20日間、遮光ネットで覆って育てられます。この遮光によって、茶葉は光合成のバランスが変化し、旨味成分であるテアニンを豊富に蓄えるのです。
「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という、幕末ペリー来航の混乱を描いた有名な狂歌がありますが、実際に玉露に含まれるカフェイン量は通常の煎茶に比べて約8倍。
これは、覆い下栽培の遮光処理によって茶葉がカフェインをより多く蓄積するためです。
以上のように、江戸時代は釜炒り茶、煎茶、玉露が生まれ、庶民に親しまれたことで茶の認識が急速に浸透し、お茶が身近になった時期でした。
黒船来航と日本茶輸出の始まり
1853年のペリー来航を契機に、日本は鎖国を解き、西洋諸国との貿易を開始しました。
1858年の安政五カ国条約締結により、日本茶は輸出品目の一つとして世界市場に送り出されることになります。
これは、日本茶が世界へと大きく羽ばたき始める重要な転換期となりました。
世界進出を遂げた日本茶
1853年、日本にとって衝撃的な出来事が起こります。アメリカ東インド艦隊ペリー長官の来航です。
その結果、1858年に日本はアメリカ、イギリスなど修好通商条約を結び、開港を宣言します。これによりお茶が輸出品の一つとして輸出されました。
日本のお茶が世界を相手にしていく大きな転換期の一歩目でした。
近代化がもたらした日本茶産業の変化
世界市場での競争が激化する中、日本茶の生産は抜本的な改革を迫られました。
従来の地方ごとの零細な生産体制から、大規模かつ効率的な生産体制への転換が急務となったのです。
明治政府は茶業の振興を政策目標に掲げ、輸出促進に力を入れていきます。
明治後期には、日本茶の輸出量は国内生産量の60%を超えるほどに成長しました。この急激な需要増に対応するため、お茶の製造工程の機械化が推進されます。
発明家・高林謙三が開発した粗揉機は、従来の手もみによる製造工程を大幅に効率化し、日本茶産業の近代化を加速させました。
また、品種改良も盛んに行われました。
静岡の茶業家・杉山彦三郎が開発した「やぶきた」は、高品質で栽培が容易なことから、現在でも日本における主要な茶品種となっています。
現代の日本茶
高度経済成長期には、日本国内での日本茶消費も増加し、同時に海外への輸出も拡大しました。
しかし、近年では国内の緑茶消費が減少傾向にある一方で、海外への輸出は増加傾向にあります。
2022年の統計では、日本の国内生産量は77,200トン、輸入量は3,088トン、輸出量は6,263トンとなっています。
日本茶は、国内のみならず世界中で愛飲される飲み物として、その地位を確立しています。