記事: 「明日は明日の風が吹く」江戸っ子の気質の秘密

「明日は明日の風が吹く」江戸っ子の気質の秘密
はじめに
今回は山本山が創業した【江戸時代】に目を向けてお話をできればと思います。
みなさまも「江戸っ子」という言葉をお聞きになったことがあるかと思いますが、彼らは「さっぱりしていて、細かいことは気にしない」「金払いが良い」「喧嘩っ早いが人情深い」などといった気質を持つといわれていました。
「明日は明日の風が吹く」「宵越しの金は持たない」などという言葉に代表されるように、江戸っ子は身も心も軽やかだったとされますが、一体なぜそのようになったのでしょうか?
実は、この背景には、江戸の町で頻発した「火災」が深く関係していると言われています。
火災が日常だった江戸の町
江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」と称されるほど、火災が頻発する都市でした。
江戸時代を通じて、市中を焼き尽くすような大規模な火災、いわゆる「大火」が約100件近く発生したと記録されており、およそ10年に一度は江戸の町全体が焼け野原になるほどの惨状でした。
江戸の名主、斎藤月信の記録「武功年表」によると、1659年の1月から3月後半にかけてのわずか83日間で105回もの火災があったと記されています。これは1日に平均1.3件もの火災が発生していた計算になります。
しかも、この105回の火事の中にはいわゆる江戸の町を数十町にわたって焼き尽くした「大火」が二度も含まれていたというのです。
このような状況は、この年が特に例外だったわけではなく、毎年冬から春にかけては同様の状況が常態化していました。
つまり、江戸に住む人々は誰もが、いつ自分たちの町が大火に見舞われるか分からない、甚大な被害を経験する可能性を常に抱えていたのです。
火災が育んだ「質素」と「享楽」
このように火災が頻発する状況は、当時の人々の暮らしや価値観に大きな影響を与えました。
当時、江戸の住人は一つの棟を簡易に区切っただけの「長屋」に暮らしていました。
その造りは非常に簡素で粗末なものが多かったのですが、これは資金不足が理由というわけではありませんでした。
江戸時代、幕府は度重なる大火のたびに、長屋の早急な再建を促すために助成金を出していました。
ところが、長屋の所有者である地主たちが、「どうせまた火事で焼けてしまうだろう」という考えのもと、あえて立派な材木を使わず、頑丈な家を建てることを避けていたためと言われています。
一方の住民たちの間にも「どうせ10年も経たずにまた燃えてしまう」という諦めにも似た考えが根付いていました。
そのため、住まいへのこだわりは薄く、家の造りや建材も必然的に粗末なものとならざるを得なかったのです。
このように、いつ火災で家を失うかわからないという切迫した状況下では、高価な家財道具や調度品を持つことは稀でした。
ましてや、持ち家を持つという発想自体が、ほとんどなかったと言えるでしょう。
その代わり、彼らはお金を手元に残さず、食事や芝居、遊びといった日々の「楽しみ」にお金を費やしたといいます。
火事が頻繁に発生することで、焼け跡の片付けや再建など、常に仕事があったことも、彼らの「宵越しの金は持たない」「明日は明日の風が吹く」という行き当たりばったりの生き方を後押ししました。
さいごに
いかがでしたでしょうか。
このように、江戸っ子の気質が形成された背景には、火災が頻繁に起こるという過酷な環境が深く根ざしていたと考えられます。
彼らの質素でありながらも刹那的な生き方は、絶え間ない火災へのある種の諦めと、今日を精一杯生きるための知恵から生まれたものだったのでしょう。
もちろん、社会も技術も、人々の生活様式や価値観も現代とは大きく異なります。
しかし、将来への不安や不透明な時代に「守り」に入りがちな現代人と比較すると、物に固執せず、一瞬一瞬を精一杯楽しむ「江戸っ子」の生き方は、どこか憧れを抱かせます。
彼らの生き様は、不安定な時代だからこそ、今この瞬間をどう生きるべきか、私たちに静かに問いかけているのかもしれませんね。