
狭山、お茶の産地を訪ねて ━ 埼玉にも銘茶あり!狭山茶の歴史と、その知られざる魅力
はじめに
「埼玉といえば?」と聞かれたら、何を思い浮かべるでしょうか。豊かな自然、歴史的な建造物、あるいは活気ある都市風景かもしれません。
しかし、実はこの地にも、千年の歴史を誇る銘茶が存在することをご存知でしょうか。
その名も「狭山茶」。
今回は、その知られざる魅力的な背景を皆様にご紹介いたします。
千年の時を超えて - 狭山茶、その歴史の足跡
狭山茶は、埼玉県南西部の入間市・所沢市・狭山市をはじめとした入間郡内を主産地とする煎茶です。
中でも入間市は最も生産量が多い地域として知られています。
その歴史は平安時代にまで遡ると言われ、弘法大師が河越の野に茶の種を植えたことが始まりという伝説も残されています。
これらの地域は、中世に大きな勢力をもった天台宗の大寺院があった場所です。
天台宗では、平安時代より儀式のお供え物として茶が使用されていたため、本山である比叡山延暦寺から茶の供給を受けていたといわれています。
鎌倉時代に抹茶の飲み方(点茶法)が広まり、茶の消費量が増えると、本山からの供給だけでは足りなくなり、狭山をはじめとする地方の寺院でも茶を自給するための栽培・製茶が始まったのです。
しかし、その後の戦乱によって有力寺院が衰退すると、これらの茶産地も荒廃してしまい、かつて栄えた茶園の姿は消え去ってしまいました。
時は流れ、江戸時代後期になると、江戸で人気を博していた宇治茶の「青製煎茶製法(永谷宗円が開発)が狭山の地にもたらされます。
狭山の茶農家たちは、その可能性に確信を抱き、本格的にお茶作りの研究に没頭しました。伝えられるところによると、その探求には実に10年もの歳月が費やされたといいます。
彼らは単に独学するだけでなく、自ら宇治の地へ赴き、その高度な製茶技術を習得。そして、苦労の末に作り上げた茶葉を、自信を持って江戸の茶商「山本山」へと贈りました。
五代目 山本嘉兵衛と狭山茶との出会い
狭山茶の歴史において、五代目 山本嘉兵衛徳潤との出会いは、その後の発展を大きく左右する重要な転機となりました。
文化十三年(1816年)、まだ地元の人々にしかその存在を知られていなかった狭山丘陵産の茶葉が、江戸の山本山へと届けられました。
山本山五代目当主、山本嘉兵衛徳潤は、この茶葉を一口味わうや否や、その奥深く豊かな風味にたちまち魅了されました。彼はこの茶を惜しみなく絶賛し、自社の販路を通じて江戸の市場へと積極的に紹介することを約束したのです。
その卓越した品質は瞬く間に江戸の評判となり、多くの人々の舌を唸らせ、高い評価を獲得しました。これにより、狭山茶の名は江戸の地に広く知れ渡り、その後の発展に向けた確固たる礎が築かれたのです。
この出会いと、その後の市場での成功が、狭山茶が江戸の銘茶としての地位を確立するうえで重要な一歩となりました。
狭山に刻まれた感謝の証
狭山丘陵の北側、出雲祝神社の奥には、狭山茶の歴史を物語る二つの石碑が並んでいます。
これらの石碑は、その歴史的な深みに加え、当時の貴重な記録である碑文、そして一流の学者・書家・彫刻職人の技が凝縮された美術品としての価値も兼ね備えています。
上の「重闢茶場碑(じゅうへきちゃじょうひ)」は、地元で初めて本格的な蒸し製煎茶の量産に成功した吉川温恭と村野盛政が、江戸の茶問屋である山本山などと取引を始めてから約10年後の天保3年(1832年)に建てられました。
碑文には、「狭山は昔から良いお茶が出る土地だったが、長い間、茶作りは廃れていた。しかし、文政年間に村野盛政と吉川温恭が、江戸の山本徳潤(五代目 山本嘉兵衛のこと)と協力して、再び狭山の麓で茶畑を開き、数百年間途絶えていた茶作りを復活させようとした」と刻まれています。
隣に佇むのは茶場後碑。明治9年(1876年)、アメリカへの茶葉輸出が最盛期を迎えていた時代に建立されたこの碑には、「重闢茶場碑」以降の狭山茶業の目覚ましい発展が記されています。
驚くべきことに、その碑文には、狭山茶が名産地である宇治茶と肩を並べるほどの評価を得るに至り、西洋の買い付け人たちは狭山茶以外の茶には全く関心を示さなかった、という当時の熱狂ぶりが克明に記されているのです。
「重ねて闢く」という題字は、一度途絶えた茶作りを再び始めるという意味で、現在の地域ブランド「狭山茶」の名前の由来ともなっています。
丘陵を見下ろす場所に立つこの石碑の最後には、「この茶作りを子孫たちが力を合わせて守り続けていけるかどうか、しばらくこの場所から見守っていよう」という、茶どころの未来を励ますような言葉が刻まれています。
これは、先人たちの期待と、未来への温かい眼差しを感じさせる一文です。
また、狭山茶の歴史を語る上で避けて通れないのが、松龍山 豊泉寺に佇む狭山茶場碑です。
昭和46年に建立されたこの石碑には、江戸時代末期の安政4年(1857年)に高名な儒学者・佐藤一斎によって撰文された碑文が刻まれており、荒廃からの狭山茶業再建に至るまでの経緯や、当時の人々の熱意が今に伝えられています。
狭山の風土が育む狭山茶の個性
狭山丘陵のなだらかな斜面に広がる茶園は、豊かな緑に抱かれ、まばゆい陽光を浴びて育まれています。
この地特有の内陸性気候が生み出す昼夜の大きな寒暖差こそが、狭山茶ならではの深い旨味を引き出す重要な要素となっています。
寒暖差が大きい地域では、茶葉の成長がゆっくりとなります。このゆっくりとした成長が、茶葉の旨み成分をじっくりと育むことにつながります。具体的には、カテキン類が少なく、アミノ酸類が豊富になるため、苦みや渋みが少なく、うまみと甘みが際立つお茶に仕上がるのです。
加えて、武蔵野台地を形成する、水はけの良い関東ローム層の赤土もまた、お茶の栽培に適した恵まれた土壌を提供していると言えるでしょう。
ところで、チャノキは本来、温暖な気候を好む樹木で、寒さにはあまり強くありません。
しかし、狭山茶の産地は、国内の大規模な茶どころとしては最も北に位置するという、厳しい気象条件下にあります。
そのため、狭山の茶農家たちは長年にわたり、並々ならぬ工夫を凝らしてきました。
寒さに耐えうる強靭なチャノキの品種改良を進めたり、この厳しい土地で育つ茶葉ならではの個性を最大限に引き出すための、独自の茶作りを追求し続けてきたのです。
地元では古くから「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でトドメさす」と謳われる狭山茶。
その最たる特徴は、仕上げの工程で施される高温の「狭山火入れ」が生み出す、他に類を見ない香ばしさです。
さらに、先述したように厳しい気象条件のもとでじっくりと育つ肉厚な茶葉が、甘く濃厚なコクのある味わいをもたらしています。
そして、この狭山茶の味わいを支えるもう一つの大きな特徴が、他の茶産地では稀な、農家自身が茶葉の栽培から製茶、販売までを一貫して手がける「自園・自製・自販」というスタイルです。
これは、単なる効率化の追求ではなく、自らの手で愛情込めて育て上げた茶葉を、納得のいく製法で仕上げ、その滋味を直接お客様に届けたいという、生産者の揺るぎない誇りと、品質に対する絶対的な自信の表れなのです。
まとめ
狭山茶を一口含めば、まずその濃厚で奥深い味わいが、ゆっくりと舌全体を包み込むように広がります。
それは、寒暖差が激しい狭山の気候とミネラルが豊富に含まれた武蔵野台地が育んだ、滋味深い記憶。
そして、仕上げの「狭山火入れ」が生み出す、どこか懐かしい香ばしさが温もりを与えます。
「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でトドメさす」―この言葉が示すように、華やかな見た目だけではない、口にした時の確かな満足感こそ、狭山茶が誇る個性です。
それは、茶農家が一年を通して丹精込めて育て、自らの手で丁寧に仕上げた、まさに「狭山でしか味わえない」滋味。
千年の時を超え、この地に根付いた狭山茶の歴史と、その風土に情熱を捧げる人々の情熱が、一杯のお茶に凝縮されています。