千利休の生涯と茶道への影響:わび茶の祖を深掘り
はじめに
千利休(宗易/1522-1591年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した茶人であり、現在の茶道の基礎を築いた人物として知られています。
安土桃山時代、千利休の登場で茶の湯は茶道として大成しますが、一方で権力者たちによって茶の湯は政治に利用されるようになります。
彼の生きた時代は、戦乱が絶えず、人々の心が不安定になりがちでした。そんな中、千利休は茶の湯を通じて、人々に心の安らぎと美意識をもたらそうとしたのです。
茶頭(さどう)としての千利休
千利休は、茶の湯を紹鷗に学び、わずか16歳にして茶会を主催したのち、織田信長(1534-1582)の茶頭(さどう)を務めました。
茶頭とは安土桃山時代から登場した役目で、将軍家や諸大名に仕え、茶の湯の準備や座敷の飾りつけ、美術品の鑑定・購入などを担当する責任者のことです。
天下統一を目指す信長は、茶の湯を愛好したといわれていますが、由緒ある茶道具を徴収(名物狩り)して権力を誇示するなど、政治にも利用しました。
当時、茶会は政治の中の一つの儀式として位置づけられていました。
天正10(1582年)、信長が明智光秀に討たれた後、利休は豊臣秀吉(1537-1598)の茶頭として重用され、茶人としての地位を高めていきます。
その三年後、秀吉は関白となり、御所(禁中)で天皇や親王を招いた茶会「禁中茶会」を催しました。
秀吉が、自身が天皇にお手前を披露する「禁中茶会」のために、壁や天井、茶道具に至るまですべて黄金の茶室を作ったことは有名です。
黄金の茶室は本来千利休が目指していた侘茶とは対極のような成金趣味的な印象ではあります。
しかしながら、利休は、茶道をより多くの人々に広めたいという強い思いを持っていました。
権力者たちとの関係においては、彼らの好みに合わせた華美な茶会を提案することで信頼を得る一方で、自身の思想である侘び茶の精神を貫き通そうという狙いがありました。
権威を誇示するための華やかな茶会に参加することは、彼の理想とは異なる側面もありましたが、同時に、茶道を広め、利休が理想とする侘び寂びの世界観を広めるための重要な機会でもあったのです。
千利休は、このような機会を通じて、茶道の普及に貢献しようとしたのかもしれません。
実際に、この茶会で、利休は正親町天皇に茶を献じて利休居士の号を与えられ、天下一の茶匠と認められるにいたりました。
これは、天皇が初めて公式に茶の湯の席に入ったものとされ、茶の湯が商人や武将たちだけでなく、公家の世界にも広がっていくきっかけになったといわれています。
千利休が目指した「平等」の茶の世界
千利休が茶の湯に込めた思いは、まさにわびの精神です。
千利休にとって茶の湯は、「平等の立場で、純粋にお茶を楽しむ場」でした。公家、武士、農民、商人、百姓など、様々な階級があっても、茶の湯では皆平等に参加できるという精神を持っていたのです。
「禁中茶会」の成功を経て、秀吉のさらなる信頼を勝ち得た千利休はようやく、自身が理想とする茶会「北の大茶湯」の開催にこぎつけます。
身分にかかわらず、町民や百姓など誰もが参加できる800席にもわたる「北の大茶湯」はまさに利休の理想とするところだったでしょう。
また、茶室のプロデュースを任された利休は、茶室の入口となる「にじり口」という二尺二寸(約66ンチ)四方位の小さな出入口を作りました。
出入口をわざと小さくしたのは、武士も商人も誰も身分の差なく、同じように頭を下げなければ入れない、茶室に入れば平等であるという意味も込められていたようです。
千利休、その最期
茶道の祖として名高い千利休は、侘び茶を大成し、数多くの弟子を育てました。
しかし、その輝かしい生涯に終止符を打ったのは、豊臣秀吉による切腹の命令でした。
天正19年、70歳の生涯を閉じることになった利休の死は、今もなお多くの謎に包まれています。
秀吉がなぜ利休に切腹を命じたのか、その理由ははっきりとは分かっていません。
大徳寺の山門に安置された利休の木像が不敬にあたるという説や、茶道に対する考え方における対立などが挙げられていますが、いずれも確証を得られているわけではありません。
もしかすると、秀吉の嫉妬や、周囲の人間による讒言が原因だったのかもしれません。
利休と秀吉の確執は、単なる個人的な感情の対立だけでなく、茶道という文化に対するそれぞれの考え方の違いが深く関わっていたと考えられます。
信長に続き秀吉も、茶の湯を権力誇示の道具として利用しようとしたのに対し、利休は茶の湯を心の修行の場として捉えていたという対比は、両者の悲劇的な結末を象徴していると言えるでしょう。
さいごに
千利休が確立した侘び茶の精神は、時を経て「茶道」と呼ばれるようになり、今日までその様式は受け継がれています。
特に、千利休を祖とする「三千家」と呼ばれる表千家、裏千家、武者小路千家の三つの流派は、茶道の代表的な存在として知られています。
これらの流派は、共通の源流を持ちながらも、それぞれの師匠が代々受け継いできた家元独自の作法や道具を用いることで、多様なスタイルを確立してきました。
現代の茶道は、千利休の教えを基にしながらも、多岐にわたる流派が花開く、豊かな文化へと発展してきたのです。