日本茶を広めた7名の偉人たち|歴史と文化を紐解く
はじめに
古来より日本人の心に深く根ざしてきた日本茶。
その歴史を紐解くと、茶の栽培や普及に尽力した人々の姿が見えてきます。今回は、日本茶の歴史を語る上で欠かせない、7人の偉人をご紹介します。
最澄(766~822年)
日本の天台宗の開祖として知られる最澄。
彼は、日本に茶を持ち帰った最初の僧侶の一人として、日本における茶の歴史において重要な役割を果たした人物です。
805年に唐から帰朝した最澄が、天台山から持ち帰ったお茶の種を比叡山麓坂本にまいたという日吉茶園が日本茶の発祥地とされています。
最澄は、比叡山で茶を栽培していましたが、それはあくまで限られた範囲内でのこと。一般の人に普及するまではいかずに、同寺の僧侶の間で飲まれていたと考えられています。
最澄が茶栽培をしていたと思われる証として有名なエピソードがあります。
それは勝手に山を下り、真言宗の開祖として知られる、自身のライバル空海(774~835年)の基に走った愛弟子泰範(たいはん)に、自分のもとに戻ってくるように、との手紙を出した際、茶十斤を空海に贈ったというものです。
空海(774~835年)
平安時代初期の僧侶で、真言宗の開祖として知られる空海。第16回遣唐使として最澄とともに唐へ渡り、密教を深く学びました。
平安の世に唐土にわたり、真言密教を持ち帰った空海が、日本にもたらしたものは仏教の教えや中国の進んだ技術だけではありません。
最澄から遅れること1年。唐から茶の種と団茶を引く石臼を持ち帰り、持ち帰った茶の種を比叡山に植えました。真言宗を開き、中国から携えた茶を嵯峨天皇に献上したといわれています。
空海の詩文集『性霊集』には、茶に関する詩が多くみられ、お茶を大変好んでいたことが分かります。
空海が唐から持ち帰った石臼が奈良の仏隆寺にあります。
高野山には茶畑が確認されておらず、空海は持ち帰った茶の種をを高弟・堅恵(仏隆寺開祖)に与え、茶の製法を伝えました。それが今の大和茶の起源です。
永忠(743~816年)
空海、最澄と同時代の人物ですが、遣唐使として30年にわたり唐に滞在したという文字通りの大僧都です。中国に渡った時期は不明ですが、805年に最澄とともに帰国しました。
『日本後期』には815年4月に嵯峨天皇が滋賀へ行幸した際、梵釈寺で永忠が自らお茶を淹れ、天皇へ献上したとの記述があります。これが、日本の公式な史記に初めて登場するお茶です。
当時のお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。このころの茶の製法は、「茶経」にある餅茶であったようです。
嵯峨天皇はこの後お茶の栽培を奨励し、皇室や貴族がお茶に親しむようになりました。
栄西禅師(1141~1215年)
栄西は、鎌倉時代に中国へ渡り、茶の栽培方法や製法を学び、日本へ持ち帰った禅僧です。彼の活動は、日本の茶道、ひいては日本茶の普及に大きく貢献しました。
栄西の最も大きな功績は、茶の薬効を説いた『喫茶養生記』を著したことです。この書物の中で栄西は、「茶は養生の仙薬、延命の妙術なり」と述べ、茶の持つ様々な効能を詳しく解説し、人々の健康に良い飲み物として茶を推奨しました。
特に、武士の間で茶は精神統一や疲労回復に役立つものとして重宝され、武士階級を中心に茶の普及が進みました。
また、栄西は、茶の栽培方法も日本に伝えました。
長崎平戸冨春庵から佐賀背振山霊山寺一帯へ茶の種を植え、栽培製茶法や喫茶法を伝えました。それまで日本にあった自生種の茶とは異なる、より良質な茶の栽培が開始され、日本各地で茶園が広がっていきました。
さらに、栄西は茶を禅の修行に結びつけ、茶道という文化を確立しました。茶道は、単なる飲み物を楽しむだけでなく、精神を集中させ、心を清める修行として行われました。
このように、栄西は、茶の栽培、製法、効能、そして茶道という文化まで、日本における茶のあり方を大きく変えた人物と言えるでしょう。
彼の活動は、後の日本の茶文化に多大な影響を与え、今日まで続く日本茶の礎を築きました。
明恵上人(1173-1232)
明恵(みょうえ)上人は鎌倉時代前期の華厳宗の僧です。茶の文化を日本に広めた栄西から禅の教えを受けていました。
その際、栄西から3粒の茶の種を譲り受け、京都栂尾の高山寺に撒きました。ここが日本ではじめて茶が作られた場所であり、日本最古の茶園とされています。
高山寺で育てられ実をつけた茶は、明恵上人の手で日本各地に広められました。
茶の効能を深く学んだ明恵は、修行に励む僧侶たちにも茶を勧めるなど、非常に熱心に日本茶の普及に取り組んだとされています。
そのかいもあって、鎌倉末期から南北朝にかけては、寺院を中核とした茶園は京都からさらに広がり、伊勢、伊賀、駿河、武蔵でも栽培されるようになりました。
聖一国師(1202-1280)
聖一国師は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧で、僧侶として最高の栄誉である「国師」の号を日本で最初に贈られた高僧です。
数々の寺を創建し、京都の東福寺を創建するなど仏教界における功績が有名ですが、静岡茶の始祖としても知られています。
駿河国(現在の静岡県)出身の彼は、宋に渡り禅を学んだ際、茶の種を持ち帰り、地元である静岡県の足久保や蕨野に植えました。当時、宋の中には医療に携わる者もあり、喫茶が養生法の一つに挙げられ、茶は医薬として珍重されてました。
のちに阿倍野川上流一帯は茶の適地として良質な茶を産するので、味の本場であるということから本山茶の名前が生まれました。
聖一国師は静岡茶を日本一にする基を作ったのです。
隠元禅師(1592-1673)
隠元禅師は中国から日本へ渡り、黄檗宗を開いた高僧です。17世紀中頃、日本の禅宗が衰退の一途を辿る中、禅宗復興の願いを込めて日本へ招かれました。
隠元禅師が日本にもたらしたものは、禅宗の教えだけではありません。
建築、彫刻、医学、書道、絵画、文字、印刷、食文化、黄檗清規と広い分野に影響を与え、また弟子により懸け橋の指導や公開図書館の開設なども行われました。
そして忘れてはならないのが、釜入り製法と煎茶の喫茶法です。
当時日本で飲まれていた抹茶はとても高価で、庶民はたやすく口にすることはできませんでした。そこで、隠元が開発した茶を粉末にする手間を省いた葉茶の製法と喫茶法により、一般の人々の間に喫茶が普及しました。